なぜ哲学書は、日本語なのに読みにくいのか?『反哲学入門』
読めるのに、意味が入ってこない

夜。
男性が哲学書を読んでいます。
三行ほど読んだところで、
手が止まります。
「……もう一回読もう」
同じところを読み直します。
それでも、
よく分かりません。
「日本語なのに、なんでこんなに難しいんだ?」
哲学書を読んでいると、
こんなことがあります。
言葉は読める。
文章も追える。
それなのに、
意味だけが頭に入ってこない。
著者・木田元さんの『反哲学入門』では、
その理由を、
哲学そのものの成り立ちから考えていきます。
そもそも哲学には、
僕たちが普段あまり使わない考え方があります。
だから、
言葉だけを読んでも、
話についていけないことがある。
では、
哲学では何を考えているのか?
話は、
古代ギリシアまでさかのぼります。
※本記事は、書籍の内容をもとに筆者の個人的な感想や解釈を交えて紹介しています。詳しい内容については実際の書籍をご確認ください。
哲学者は、目の前にあるものだけでは終わらない

机の上に、
リンゴがあります。
男性が言います。
「リンゴだな」
普通なら、
それで話は終わります。
でも、
哲学者はそこで止まりません。
「では、“リンゴらしさ”とは何だろう?」
男性が、
もう一度リンゴを見ます。
赤い。
丸い。
甘い。
でも、
青いリンゴもあります。
少し細長いリンゴもあります。
それでも、
僕たちは見れば、
「これはリンゴだ」
と分かります。
では、
形や色が違っても、
リンゴをリンゴだと分からせているものは何なのか。
哲学では、
こういうところまで考えていきます。
同じことは、
円でも考えられます。
紙に円を描けば、
どれだけ丁寧に描いても、
少しはゆがみます。
それでも僕たちは、
「完全な円」
を思い浮かべることができます。
すると、
目の前にあるものだけではなく、
その奥にある、
もっと確かなものまで考え始める。
男性は、
まだリンゴを持っています。
「食べる前に、ずいぶん話が深くなったな」
哲学書を読んでいると、
こうして、
目の前の話から、
本質や真理の話へ進んでいきます。
分からないときは、前提を探してみる

会社。
上司が資料を渡します。
「これ、いつもの感じでまとめておいて」
部下が聞き返します。
「いつもの感じって、どんな感じですか?」
上司は少し考えます。
「……そうか。やり方を説明してなかったな」
こういうことは、
日常でもよくあります。
自分では当たり前だと思っていることを、
相手も知っているつもりで話してしまう。
でも、
実際にはそうとは限りません。
相手と自分で、前提が違っている。
上司は、
「このやり方は知っているはずだ」
と思っていた。
部下は、
そのやり方自体を知らなかった。
これでは、
「いつもの感じ」と言われても分かりません。
哲学書も似ています。
書いた人が、
何を当たり前だと思っているのか。
そこが見えないまま読むと、
言葉だけを追っても、
意味がつながりにくくなります。
だから、
分からないときは、
一度だけ考えてみる。
「この話は、何を前提にしているんだろう?」
その前提が見えると、
さっきまで分からなかった話が、
急につながることがあります。
最後に

翌日。
会社で、
上司が言います。
「これ、普通にまとめておいて」
以前なら、
部下はそのまま作業を始めていました。
分からなくても、
なんとなく合わせる。
違っていたら、
あとで直す。
でも今日は、
一つだけ聞きます。
「“普通に”って、前回と同じ形ですか?」
上司が答えます。
「ああ、それでいい」
それだけで、
話が終わりました。
哲学を読んだからといって、
世界の真理が分かるわけではありません。
でも、
「普通」「当然」「みんな分かる」
そんな言葉を、
そのまま信じなくなります。
誰かと話がかみ合わないときも、
「どっちが間違っているんだ?」
ではなく、
「どこから前提が違っているんだ?」
と考えられる。
それだけで、
無駄なすれ違いは少し減ります。
哲学は、
答えをくれるというより、
質問する場所を変えてくれる。
ただし、
何でも前提から確認し始めると、
家では少し嫌がられるかもしれません。
「夕飯、何がいい?」
「“いい”って、どういう意味?」
そこまで行くと、
たぶん哲学の使いすぎです。
